「ヨソモノ」という言葉

日直えひめ暮らし、鍋島です。

今日は「ヨソモノ」という言葉について、僕自身のエピソードを交えながらお話していきます。どうぞ、気軽にご覧くださいね。

ずっと使っていた「ヨソモノ」という言葉

移住してからというもの、ぼくは地域のなかで必ずといっていいほど「ヨソモノ」という言葉を使っていました。「ヨソモノだけど~」「まぁヨソモノなので」といったような感じです。これはある意味では地域の方に失礼がないように、また一方では自分の身を守るための言葉でした。ヨソモノのぼくはこう思うけど地域の考え方が大切ですよ、ヨソモノですがえらそうにものを言いたいわけではありませんよ、といったぼくなりの自己防衛を含んだアピールだったわけです。

地域の人が思う「ヨソモノ」という言葉の捉え方

移住4年目を迎えたころのことです。集落の若者たちの飲み会のなかで、地域の行事や消防団についての熱い議論が交わされていました。ぼくはそこでも、いつものように「いやぁおれはヨソモノやけどこう思うよ」なんてことを自然に口にしていました。もう癖になっていたのでしょう。そんなぼくの対面で飲んでいたある人が、ぼくに突然こんな言葉を投げかけてきたのです。

「いつまでもヨソモノヨソモノって口にするな」

「お前はもうこの集落の一員やろうが」

「そうやってお前がヨソモノやといつまでも思ってたら、寂しいのはこっちなんやぞ」

「ちゃんとこの集落に住んでる一員やっていう自覚を持て」

呆気にとられながらも周りを伺うと、他の人たちもみな頷いていました。

「そやなぁ、もうお前はここに住んでるんやからな」

「あんまりヨソモノやって言葉を使われたら、距離を感じてしまうわなぁ」

使わなくなった「ヨソモノ」という言葉

この一件があって以来、ぼくは努めて「ヨソモノ」という言葉を使わなくなりました。言われることはあっても、自ら使うことをしなくなりました。むしろ「ヨソモノ」とぼくのことを言う人がいたら「ぼくはもうここの人間やけん」と笑いながら言い返すほどになりました。それほど、あの時にもらった言葉はぼくにとって衝撃的で、そしてここに住むことができて心からよかったと思えたものだったのです。集落の人が、ぼくを集落にとって当たり前の存在として受け入れてくれてことを、肌で感じた瞬間だったのです。これは、何にも代え難い歓びでした。

移住者はヨソモノであり、地域で暮らしを送るにあたってその自覚は必ず必要です。でも、その自覚が行き過ぎてしまうと、かえって地域の人たちとの距離を置いてしまうことになるのかもしれません。

地域に流れる独特のペースに身を委ね、溶け込みながら、じんわりと「ヨソモノ」から「ジノモノ」に変化していくこと。それが、豊かな田舎暮らしを送るために大切なことなのかもしれません。