生まれ育った愛媛県八幡浜市の港そばで「コダテル」を営む濵田規史(のりふみ)さん。誰もが心の中に抱く「やってみたい」「こうなったらいいのに」を「企て」と称し、地域の人、“外”から来る人の大小の「企て」を実現する場づくりに取り組んでいる。次々と地域を“耕す”ためのユニークな仕掛けを考える濵田さんの、企てのものがたり。
みんなにとっての、“ヒミツキチ”。
愛媛県でも指折りの柑橘産地で、フェリーが行き来する港がある八幡浜市。その港から車で5分ほどの、いくつもの漁船が停留する海岸線のそばに「コダテル」はある。地元出身のオーナー・濵田規史(のりふみ)さんは、ゲストハウスとコワーキングスペース、子どもたちの教育プログラムの場、の三つの柱でコダテルを営む。
すべてに共通するのが、一人一人の「企て」を大切にする、ということ。「みかんラテを作ってみんなに飲んでもらいたい」「日本一周ウクレレライブ旅をしたい」「ゲストハウスを作りたい」。ちょっとした決意表明から大きな目標まで、コダテル利用者の「企て」が、一階のコワーキングスペースに置かれたボードに並ぶ。
「家庭でも学校でも社会でも、思ったことを口に出して実行するのって案外ハードルが高いじゃないですか。みんなのやりたいことを“ヒミツキチ”のようなコダテルで思う存分やってほしくて」
少年時代の、反骨と好きなこと。
濵田さんの実家は、コダテルから徒歩1分の場所にある。柑橘のブランド産地の、農家の長男に生まれ、家業を継ぐという周囲の期待を受けて育ってきた。そのプレッシャーが大きくなればなるほど、「それ以外の道につく」という反骨を強めていく。
「子どもの頃は、報道記者やアナウンサーになりたかった。とにかく、農家にならない方法を考えようと必死でした。ただ、農家を継ぐのがいやだったわけではなく、何もしなかったら敷かれたレールの上を進む。そのことが怖かったのです」
今の活動にも通じる、何かをかたちにする喜びやおもしろさに気づいたのは小学校時代。パソコンが珍しかった当時、放送委員だった濵田さんは父親のパソコンで、曲のリクエスト表を作った。「自作のものが教室で配られたときの高揚感と、頭の中のやりたいことをアウトプットする楽しさを今でも覚えています」
友だちと企画グループをつくって、近所でミニ運動会をしたり、新聞を作ったり。勉強以外のことに熱中するあまり、「気づけば公立高校に受からない成績で、半年間は死ぬほど勉強しました」。
無事に公立高校の合格を果たし、「少し休もう」と思っていた矢先、顧問の教諭から誘われ、軽い気持ちで入った「商業研究部」との出会いが、いまの濵田さんを形づくる大事なエッセンスになる。
その部で取り組んだのが、商店街を活性化するために空き店舗で商いをするというまちづくり。駄菓子屋や夜市などを企画し、実際に店を開く。高校生の先進的な取り組みとしていろんなメディアがテレビや新聞などで紹介した。自分たちの活動で商店街がにぎやかになる姿を目の当たりにしながら、学校の先生たちや商店街の人たちといった“大人”がサポートしてくれる地域の温かさを知った。
「後になって知ったのですが、毎回マスコミの人たちが取材してくれたのは、先生がこっそり報道機関に『次は生徒たちがこんなことをします』とプレスリリースを流してくれていたからでした。ぼくが今、コダテルで関わっている人を“照らす”ことを大切にしているのは、先生をはじめ、いろんな人たちに照らしてもらって今の自分があると思っているからです」
大学で県外に出たとしても卒業後は必ずここに戻ってくる。そう決めたほど、商業研究部の活動で感じたこと、得たことは大きいものだった。
自分のやりたいことに、たどり着く。
高校を卒業後、山口大学で地域経済論を学んだ。就職先は、企画ができる仕事で、地域と関わり、人のためになるものがいいと考えていた。ゼミの先生から「金融機関は地域を元気にする使命のもと、地域の血液であるお金を地域に回すところだよ」とアドバイスを受け、中でも県内でお金を循環させる愛媛の金融機関を選び、就職した。
故郷・八幡浜の支店で、融資の部署に配属。「一人一人のお客さんに向き合えて、結果喜んでもらえることがうれしかったですね」。状況が変わったのは、6年目。営業担当になり、ノルマに追われる日々。相手が決して喜ぶことではない領域にも踏み込んでいかなければならない。どんな状況でも前向きに捉え、役目を果たしてきた濵田さんが、はじめて自分の仕事を「合ってないかもしれない」と思いはじめた。
県への出向が決まったのは、ちょうどそんなタイミングだった。八幡浜市を含む南予地域の事業で、住民主導の観光プログラムを作るサポートを担うことに。金融の知識を使って助成金を確保する手伝いをしたり、やりたいことを実行する仕組みづくりを支援したりする仕事は、「自分が本当は何をしたいか」「何をすべきなのか」を照らしてくれた。
「住民の人たちの思いや考えをすくいとって実現することの喜びややりがいを改めて感じました。融資とかお金の話になる以前の、だれかの『やってみたい』を大切にしながら、地域の人たちと一緒になってかたちにするお手伝いをしたいと思ったんです」
出向期間の1年半を終えて3ヶ月後、上司に辞意を伝えた。その手には、これからやりたいことをまとめた80ページにも及ぶ企画書を携えて。
企画書のボリュームにも表れるように、石橋を叩いて渡る慎重派。だからこそ、辞めてやっていけるかの算段はつけていた。ゲストハウス、コワーキングスペース、教育の場。企画書に書かれ、現在取り組んでいる3つの事業とも、市場調査やアンケート集計を重ね、この地域にニーズがあることをつかんでいた。地域活動を支援する業務委託の仕事があることも、独立を後押しした。
ゲストハウスを事業の一つに加えたのは、地方創生の流れで、「この地域と関わりたいと思ったときの入口になれたら」というのと、“外”からおもしろい人が関わることで地元の刺激になる。そのためにはこの地域にないゲストハウスが必要、という2つの思いからだ。
そうして、子どもの頃から慣れ親しんだ場所で、築70年の空き家をリフォームして2018年、コダテルを開いた。
コダテルが地域づくりの先進事例として注目を浴びたのは、「企て」という独自のコンセプトによるところが大きい。これは企画書にはなかった言葉だ。「事業の三つの柱が決まり、自分が何をしたいのか考えていくうちに、『企て』というフレーズが浮かびました。三つがその言葉で集約して考えられるようになると、ひとつひとつの意味合いも変わっていきました」
例えば、コダテルのゲストハウスでは、事前に宿泊予定者の「企て」や「泊まる理由」を聞いている。本人の了承を得れば、「こんな企てをもった人が◯月◯日にコダテルに泊まります」と会員向けに情報発信。その内容に興味を持った会員とゲストが出会う仕組みをとる。このように、「企て」を媒介に地域と“外”の交流のチャンスを意識的につくっている。
一人一人の内側に、イノベーションの種はある。
コダテルを展開し、4年がすぎた。当初思い描いたとおり、移住希望者や地方との関わりを求める人たちがゲストハウスを利用する。その交流の深さを物語るように、実際に移住してきた利用者も少なくない。
1階がコワーキングスペース、2階が宿泊スペースになっているメリットを生かし、地域課題を解消するプランを立てられるのもコダテルの強みだ。例えば、コロナ禍で柑橘のアルバイターが確保できない中、収穫をしながらテレワークをする独自のワーケーションプランを企画。作業の時間を半日と1日と選べるように設定したところ、見事ニーズにハマった。さらに、コワーキングスペースの利用会員に宿泊オプションをつけたプランも作り、戦略的に関係人口を生みだす。利用者は少しずつ増え、国内外へとその輪を広めている。
地域を“耕す”ためには“外の風”が大切、と内と外をつなぐ仕組みを次々と企てる濵田さん。その活動の根っこにある精神は、とてもピュアだ。
「会員になって2年たってはじめて『企て』を登録できたり、オンラインサロンでこれまで反応がなかった会員さんが『いいね』のボタンを押してくれたり、その人のマインドが変わった瞬間に立ち会えるのがめちゃくちゃうれしい。今振り返ると、中学の頃から、ぼくが企画したことに参加してくれてみんなが楽しんでいる姿を見るのが、好きでしたね」
誰もが心を掻き立てるくわだてを起こせる社会をつくる。これが濵田さんのめざす、活動のゴール。「地域のイノベーションはその先にある」。そう、信じている。
取材・写真・文 / ハタノエリ