人生でいちばんキラキラしていたのが協力隊時代でした。

地域おこし協力隊OG 愛媛県松野町 矢間香奈さん

宮城県仙台市出身。地元の高校を卒業後、東京の美容専門学校で学び、仙台で美容師に。2015年、愛媛県内子町に移住し3年間、地域おこし協力隊を務める。その後、愛媛で結婚し、2019年から松野町で夫の農業を手伝いながら、アイリストとしても活動する。

豊かな森が広がり、四万十川の支流がまちをつくる愛媛県松野町。県内の別の場所で地域おこし協力隊を務めたのち、矢間香奈さんはいま、この松野町で、夫の農業を手伝いながら、アイリストとしても活動しています。

旅で好きになった地へ移住する。

香奈さんは仙台市出身。東京で美容専門学校を卒業後、仙台に戻り、美容師になりました。中学時代から憧れだった職業。やりがいはありましたが、「12時間、ほぼ立ちっぱなしのハードな職場で、肉体的にも精神的にもしんどくなっていきました」。

現実から逃れるように、旅先の自然を満喫していた香奈さん。自分の人生をリセットしたいと、美容師を辞めます。休養の間に旅をしたのが、香奈さんにとって未踏の地だった四国。バスで4県の観光スポットをめぐるツアーを終え、「いちばん気に入ったのが愛媛でした」。

その後、しごと探しと同時に、そのタイミングで住む場所も変えたいと考えます。パソコンの検索ページで「移住、しごと」と打ち込んで出てきたのが、はじめて聞く「地域おこし協力隊」というワード。

全国各地で募集していて、給料もあるというその任務に興味を抱きます。そして、何より運命を感じたのが、募集リストのなかに「愛媛県内子町」が入っていたこと。愛媛を旅したとき、ガイドブックに載っていた古い町並みのうつくしさに一目惚れし、「いつか行こう」と心に決めていた場所だったのです。

企画したプロジェクトを成功に導く。

採用面接をクリアして、2015年、内子町の地域おこし協力隊になりました。香奈さんのミッションは、自ら希望した観光振興。何もつてがなく、何も分からないまちで、じぶんに何ができるのか。考えをめぐらせてひらめいたのが、味わいのある町並みを着物姿の女性が歩くプロジェクトでした。

「内子の町並みと着物は似合うなと思っていました。着物なら、着付け、ヘアメイクのスキルを生かすこともできます。これ以上やりたくないと離れた職業でしたが、美容師しかできないと気付いたんです」

地域の賛同と協力を得て、場所やレンタル着物がそろい、少しずつ実現に向かっていきました。ポップなイメージにしたいと、「あでやか」と「カワイイ」を融合させた「あでカワ」プロジェクトと命名。パンフレットもポップに制作するなど、アイデアが功を奏し、「あでカワプロジェクト」は広く知られるようになっていきました。

「自分が頭のなかで思い描いたことが、いろんなひとの協力を得て、どんどんかたちになっていく。夢のようで、その渦中にいるのがとても不思議に思えました。このころのわたしはたぶん、人生のなかでいちばんキラキラしていました」

別のまちの移住者と結婚し、内子を離れる。

協力隊の3年の任期を終え、地元の観光協会でプロジェクトを継続していたところ、転機を迎えます。松野町の協力隊、矢間大藏さんと出逢い、結婚。永住を決めていた内子町を離れることに。2019年、松野町へふたたび、移住しました。

「寂しさと申し訳なさで胸がいっぱいでしたが、じぶんの人生を優先しようと決意しました。『幸せになれよ』と快く送り出してくれたのは本当にありがたかったですね」

松野では、大藏さんの桃づくりをサポート。蕾をとる、一つひとつ、果実に袋をかけるなど、収穫するまでにたくさんの手間がかかるのが桃栽培です。1年経験して、農業という仕事の大変さとやりがいの両方を味わったといいます。

「収穫シーズンの長雨はこたえましたね。自然相手のしごとの大変さが身に沁みました。でも、そうやって辛抱して、手間をかけた桃たちを収穫したときは感動して涙がでました。わが子のようにかわいいんですよ」

ふたたび、美容の世界にチャレンジする。

一方で、新しい肩書きもできました。まつげエクステンションを施すアイリストです。

「あでカワプロジェクト」を経験したことで、女性をうつくしくするという美容のしごとの魅力を再認識した香奈さん。結婚前に、2ヶ月間、仙台市に里帰りした際、アイリストになるための専門学校へ通い、プロのコースを修了。2019年秋から、電話で“飛び込み営業”をして採用が決まった隣町の美容室で、週4日ほど、美容アシスタントとアイリストをしています。

震災と父の死から、大切なことを学ぶ。

やろうと思ったら即、実行にうつす。香奈さんの尽きない行動力の裏には、2つの大きな体験があります。東日本大震災と父親の死。死が脳裏にちらつくほどの未曾有の揺れを経験。その翌年に、父親が急死します。

「もともと、行動派だったわけではありません。ひとはいつ死ぬか分からないというのを、身を持って感じ、思い立ったら行動しなければダメだと思いました。愛媛の移住も、放射能の影響で避難したいとか、恐怖から逃げたいとかではなくて、別のところに住んでみたいという夢を叶えたのです。移住してから、すべてがガラリと変わりました。ひととして、成長できたと感じています」

「奥手だった」という仙台時代。いまは、移住者のひとりとして、ラジオや講演会など、表舞台に立つことも多々。見ず知らずの地だったからこそ、“丸裸”のじぶんと向き合い、新しい部分を引きだせたのかもしれません。

「いつかアイリストとして独立してこのまちでサロンをつくりたいです。こんな田舎に?って思うことさえ、逆手にとってみたい」と、先の夢を描きます。キラキラと光る彼女のオーラは、内側からもにじみ出ていました。